菊地槃山

(槃山先生之碑 日枝神社)


造山日枝神社
造山日枝神社

顕彰碑
顕彰碑


菊地槃山(きくちばんざん)は1793年(寛政・かんせい5年)、小泉村(こいずみむら 造山(現、河北町造山)に生まれました。
いつもは伊兵衛(いへえ)または良弼(りょうすけ)となのっていたようです。
槃山とは先生(せんせい)として、または歌人(かじん)としての名(なまえ)です。

少年時代(しょうねんじだい)、槃山は日塔久七(にっとうきゅうしち)を先生として、勉強(べんきょう)に励み(はげみ)ました。
その後、18歳の時、谷地の林石門(はやしせきもん)という先生の塾(じゅく)に入り、本格的(ほんかくてき)に漢学(かんがく)について勉強をはじめました。
さらに1819年(文化・ぶんか14年)に江戸(えど)に出て、安積艮齋(あずみりょうさい)の門(もん)をたたきました。槃山25歳の時です。
安積艮齋の塾では学僕(がくぼく)として、つまり、先生や塾の雑用(ざつよう)を済ませる(すませる)かたわら勉学(べんがく)にいそしんだようです。

その後槃山は安積艮齋の塾から独立して、自らも江戸に塾を開き、子弟の教育に力を入れました。

槃山の塾の運営(うんえい)は順調(じゅんちょう)でしたが、槃山37歳の時、故郷(こきょう)造山の両親(りょうしん)が亡くなって(なくなって)しまいます。

槃山は両親の不幸を機に造山に戻り、自宅を学舎として塾を開きました。

槃山は漢学のほか、孔子(こうし)の教えである儒教(じゅきょう)の経書(けいしょ)を学ぶ経学に秀でて(ひいでて)いたようです。
造山の塾でも漢学とともに経学も、子弟(してい)に教えていたようです。
槃山やその子弟は経学を通じて地区の民政(地区の運営・うんえい)にも関わって(かかわって)いたようです。
槃山は詩文(しぶん)の作成(さくせい)も続け(つずけ)ました。

槃山の子弟の一人に天満の江端忍(えばたしのぶ)がおります。
江端は逸見魯齋(へんみろさい)の先生の一人(ひとり)でもあります。

槃山が活躍(かつやく)した時代(じだい)、江戸三大飢饉(ききん)の一つともいわれる天保(てんぽう)の大飢饉(だいききん)がおきました。
洪水(こうずい)や冷害(れいがい)で作物(さくもつ)が育たず(そだたず)、大規模な(だいきぼな)食料不足(しょくりょうぶそく)におちいり、特に(とくに)東北地方(とうほくちほう)で甚大(じんだい)な被害(ひがい)が出ました。
寒河江(さがえ)・河北(かほく)など、村山地(むらやまちほう)方でも多くの犠牲者(ぎせいしゃ)が出たようです。

この時、寒河江や河北の一部(いちぶ)を支配下(しはいか)においていた寒河江・柴橋代官所(さがえ・しばはしだいかんしょ)の代官、池田仙九郎(いけだせんくろう)は蓄えて(たくわえて)おいた米を食べさせるなど、人々の救済(きゅうさい)に努め(つとめ)ました。

この池田氏(いけだし)の行い(おこない)をたたえるため、代官所管内(だいかんしょかんない)の名主(なぬし)たちが記念碑(きえんんひ)を作りました。
この記念碑は寒河江市慈恩寺(じおんじ)の旧醍醐小学校(きゅうだいごしょうがっこう)の跡地(あとち)に「池田府君仁政之碑(いけだふくんじんせいのひ)」として現存(げんぞん)します。

池田府君仁政之碑
池田府君仁政之碑


この碑(ひ)に刻まれた(きざまれた)漢文(かんぶん)は菊地槃山によるものです。
槃山41歳の頃(ころ)のようです。
槃山も飢饉の被害のひどさを自ら(みずから)の目で見ていたため、学識(がくしき)をつくして文章(ぶんしょう)を作ったと思われます。

残念(ざんねん)ながら記念碑の風化(ふうか)が激しく(はげしく)、記念碑に近づいて(ちかづいて)、目を凝らして(こらして)見てみないと文字(もじ)が刻まれて(きざまれて)あることがわからないかもしれません。しかし、よく見てみると確かに「槃山菊地」と刻まれてあることがわかります。

石碑に刻まれた「槃山」
石碑に刻まれた「槃山」

石碑に刻まれた「菊地」
石碑に刻まれた「菊地」


この記念碑の文(碑文)は、2007年に発行された『西村山地域史の研究 第25号』にくわしく載っています。

槃山は49歳の時、病(やまい)に冒され(おかされ)この世(よ)を去って(さって)しまいました。

造山の日枝神社内(ひえじんじゃない)にある「槃山先生之碑」は槃山の死を惜しむ(おしむ)門人(もんじん)が先生をたたえて建立(こんりゅう)したものだそうです。