逸見竹石

竹石句碑 白山堂 逸見氏宅内

逸見竹石の句碑
逸見竹石の句碑

逸見竹石(ちくせき)氏(し)は、本名(ほんみょう)を逸見武(へんみたけし)といい、竹石は詩(し)を作る(つくる)ときなどの名前(なまえ)です。

逸見竹石氏は1888年(明治・めいじ21年)12月、白山堂に生まれました。
明治31年に西里尋常小学校(にしざとじんじょうしょうがっこう)卒業後(そつぎょうご)、谷地小学校(やちしょうがっこう)の高等科(こうとうか)に入学(にゅうがく)、明治35年には西村山郡立西村山中学校(にしむらやまぐんりつにしむらやまちゅうがっこう)、現、(げん)県立寒河江高校・けんりつさがえこうこう)のところにあった学校に学び(まなび)ました。

卒業後、逸見竹石氏は農業(のうぎょう)などにいそしむ中、塩ノ渕の西川菊畦(にしかわ きっけい)を師(し)に漢学(かんがく)を学び(まなび)、また漢詩(かんし)の指導(しどう)も受け(うけ)ました。
西川菊畦は逸見魯齋(へんみろさい)の塾(じゅく)の門人(もんじん)です。
また逸見竹石氏は、漢詩とともに篆刻(てんこく・ハンコを作ること)もはじめました。

逸見竹石氏は当時(とうじ)の俳諧(はいかい)の第一人者(だいいちにんしゃ)であった大須賀乙字(おおすが おつじ)に俳句(はいく)の指導(しどう)を受け、師の西川宅に大須賀が宿泊(しゅくはく)したおり、直接指導(ちょくせつしどう)してもらったこともあったようで す。
こうした努力(どりょく)に寄り(より)、逸見竹石氏の俳句の実力(じつりょく)は全国(ぜんこく)レベルにも達して(たっして)いました。

逸見竹石氏は農業に従事(じゅうじ)しながら、ひたすら俳句を作り続け(つづけ)、俳句誌(はいくし)の選者(せんじゃ)にも選ばれて(えらばれて)います。
大正(たいしょう)6年の俳句集(はいくしゅう)にも逸見竹石氏の作品が多数掲載(たすうけいさい)され、農業に従事する「土の俳人(つちのしじん)」として逸見竹石氏の独特(どくとく)な俳句の雰囲気(ふんいき)が全国的(ぜんこく)に認められる(みとめられる)ようになっていきます。

また、逸見竹石氏の書(しょ)も多数残って(たすうのこって)います。
白山堂白山神社(はくさんどうはくさんじんじゃ)の祭典(さいてん)の時にかかげられるのぼり旗(はた)も逸見竹石氏の書で、西里小学校の体育館(たいいくかん)に布(ぬの)を広げ(ひろげ)、藁(わら)で字(じ)を書いた(かいた)、と当時(とうじ)小学生だった人から聞いた(きいた)ことがあります。

逸見竹石氏は他人(たにん)からも信頼(しんらい)される方(かた)だったようで、大正(たいしょう)14年3月に西里村の収入役(しゅうにゅうやく)に推薦(すいせん)され、その後8年間、西里村の財政(ざいせい)に携わり(たずさわり)ました。
また、逸見竹石氏は西里小学校の初代PTA会長でもあります。
逸見竹石氏は昭和8年に西里郵便取扱所(現:西里郵便局)をひらき、昭和32年までに郵便局長(ゆうびんきょくちょう)を努め(つとめ)ました。

逸見竹石氏は数々(かずかず)の賞(しょう)を受けて(うけて)いますが、その中でも昭和(しょうわ)32年には第一回「河北町文化賞」(だいいっかい「かほくちょうぶんかしょう」)を受賞(じゅしょう)、昭和54年には「河北町名誉町民(かほくちょうめいよちょうみん)」の称号(しょうごう)を受けました。
また逸見竹石氏は、昭和48年に「齋藤茂吉文化賞(さいとうもきちぶんかしょう)」も受賞(じゅしょう)しています。

昭和58年4月7日、逸見竹石氏は惜しまれ(おしまれ)ながらこの世(よ)をさりました。
西里郵便局脇(わき)の逸見さんのお宅(おたく)の入口付近(いりぐちふきん)には、
「雷鳴の虚空蔵に外れて月涼し」
「らいめいの こくぞうに はずれて つきすずし」
の歌碑(かひ)とその添碑(てんぴ)が建っています。

この歌碑は昭和46年5月に「竹石翁(ちくせきおう)を讃える会(たたえるかい)」によって建立(こんりゅう)されました。

歌碑を鑑賞(かんしょう)するときは、民家内(みんかない)であることを忘れず(わすれず)に、失礼(しつれい)のないようにしてください。