本木勝次郎

本木棟梁 下槙本木家民有地内



本木棟梁碑



本木勝次郎(もとき かつじろう)氏は1849年(嘉永・かえい2年)大久保村・おおくぼむら(現:村山市大久保)の松田惣七(まつだ そうしち)氏の次男(じなん)として生まれ、後に下槙の本木家をつぎました。

本木勝次郎氏は大工(だいく)の棟梁(とうりょう)として活躍(かつやく)するのみではなく、現在(げんざい)でいう設計士(せっけいし)としても大活躍(だいかつやく)しました。
当時(とうじ)は棟梁が設計図(せっけいず)を書き(かき)、同時(どうじ)に工事(こうじ)を監督(かんとく)していましたが、本木勝次郎氏は他(た)の棟梁に代わって(かわって)工事の設計のみを請負った(うけおった)建物(たてもの)も多かった(おおかった)そうです。

本木勝次郎氏が手がけた建造物(けんぞうぶつ)は、

    西里小学校旧校舎(にしざとしょうがっこうきゅうこうしゃ)・寒河江小学校旧校舎(さがえしょうがっこうきゅうこうしゃ)などの学校関係(がっこうかんけい)が26件(けん)。
    溝延(みぞのべ)村や左沢(あてらざわ)などの役場関係(やくば)が5件。
    寒河江川(さがえがわ)の橋(はし)や最上川(もがみがわ)にあった田井橋(だいばし)などの橋梁(きょうりょう)関係が6件。
    寒河江伝染病院(さがえでんせんびょうびょういん)などの病院関係が4件。
    西村山郡会議所(にしむらやまぐんかいぎしょ)など郡(ぐん)の関係の建物が3件。
    東林寺本殿(とうりんじほんでん)などの寺社(じしゃ)関係が6件と、

本木棟梁が関係した建造物(けんぞうぶつ)は多岐(たき)にわたっており、またその数(かず)も膨大(ぼうだい)です。

もちろん昔(むかし)、白山堂にあった西里村役場(にしざとむらやくば)や駐在所(ちゅうざいしょ)などの西里村が関係した工事はすべて本木棟梁の手によるものだったそうです。

「本木棟梁」の碑は1908年(明治41年)に安達又吉(あだちまたきち)氏や土方茂作(ひじかたもさく)氏ほか6名たちによって建てられました。

碑は本木家の敷地内です
碑(ひ)は本木家(もときけ)の敷地内(しきちない)です。

下槙地区内のT字路(てぃーじろ)から下槙の簡易郵便局(かんいゆうびんきょく)に向かって(むかって)すぐ左手(ひだりて)、本木家の入口付近(いりぐちふきん)に碑が建立(こんりゅう)されています。

個人(こじん)のお宅内(おたくない)にある碑ですので、見せていただく時は失礼(しつれい)のないようにしてください。

本木棟梁は1918年、大正(たいしょう)7年に70歳でこの世(よ)をさりました。

本木棟梁が手がけた建物が見たいとき、寒河江市の長岡山(ながおかやま)にある西村山郡役所の会議所や谷地の東林寺がいいのではないでしょうか。