逸見魯齋

(魯齋逸見先生碑 白山神社)


魯齋逸見先生碑
魯齋逸見先生碑


逸見魯齋(へんみろさいは)は1846年(弘化・こうか3年)、白山堂の逸見庄左衛門家(へんみしょうざえもんけ)に生まれました。
幼い時(おさないとき)の名前(なまえ)は時之助(ときのすけ)といい、のちのち、庄左衛門を世襲(せしゅう)しました。
世襲とは、その家の決まり(きまり)で必ずなのらなければならない名前(なまえ)があり、その名前をついだ、ということです。
「魯齋」とは、逸見庄左衛門の学校(がっこう)の先生(せんせい)としてや、詩(し)を作った時(つくったとき)に使う(つかう)名前(なまえ)です。

「魯(ろ)」という字(じ)には、意外(いがい)な意味(いみ)があるようです。
このことからも魯齋の気さくな人柄(ひろがら)、かざらない人柄が偲ばれ(しのばれ)ます。
みなさんもぜひ「魯」の意味(いみ)を調べて(しらべて)みてください。
魯齋は明治・めいじ32年(1901年)、54歳(さい)で亡くなり(なくなり)ました。

魯齋は18歳の時に江戸(えど)に出て安井息軒(やすいそっけん)の塾(じゅく)で学び(まなび)ました。

じつは、故郷(こきょう)の家族(かぞく)は江戸で学ぶ(まなぶ)ことに強く(つよく)反対(はんたい)していて、学費(がくひ)を送る(おくる)ことをやめ、さらに、西里で魯齋の先生だった江端忍(えばた しのぶ)を江戸に送り、魯齋に西里に帰(かえる)ることを説得(せっとく)をしてもらうことにしました。

江端忍が江戸につくと、学費を止められ(とめられた)たしまった魯齋は少し(すこし)も屈する(くっする)ことなく、安井息軒のもとに住み込んで(すみこんで)学問(がくもん)を続けて(つずけて)いました。
迎え(むかえ)に来た江端は安井息軒に魯齋の優秀さ(ゆうしゅうさ)を伝え(つたえ)られ、江端は魯齋を西里に連れて(つれて)帰ることをやめ、逆(ぎゃく)に学問に励む(はげむ)ように激励(げきれい)して西里に戻った(もどった)そうです。

魯齋は特(とく)に漢学(かんがく)に優れ(すぐれ)、21歳の時に隅田川(すみだがわ)の舟遊び(ふなあそび)を歌った(うたった)漢詩(かんし)は特に優れた作品(さくひん)として絶賛(ぜっさん)されたそうです。

江戸で三年間学んだ(さんねんかんまなんだ)後、魯齋は西里に戻ります。
帰ってきた後も、天童(てんどう)などで開かれる(ひらかれる)勉強会(べんきょうかい)などに通い(かよい)、詩を作ることを続け(つづけ)ました。

また、自宅(じたく)に「筆学稽古所(ひつがくけいこじょ)」という塾(じゅく)を開き、弟子(でし)の育成(いくせい)に努め(つとめ)ました。
その数(かず)は70名にも及んだ(およんだ)そうです。
魯齋の学識(がくしき)の深さ(ふかさ)から、多くの人に尊敬(そんけい)され、置賜地方(おきたまちほう)の人までも魯齋の塾で学んだそうです。
この塾が明治5年に始まった新しい学校制度(がっこうせいど)のもと、明治8年に「西里学校」となります。
現在の河北町立西里小学校の基(もと)の学校です。

白山神社の碑(ひ)に刻まれて(きざまれて)いる文(ぶん)の中(なか)に、

「庶民的(しょみんてき)で頼まれ(たのまれ)れば、どのような人の宴会(えんかい)にも参加(さんか)して一緒(いっしょ)に酒(さけ)を酌み交わした(くみかわした)。お酒がはいると、漢詩(かんし)だけでなく、里謡(さとうた)もみんなといっしょに歌った(うたった)」

という意味(いみ)の漢文(かんぶん)が刻まれています。
いかにも「学者先生(がくしゃせんせい)」といった近寄り難い人(ちかよりがたいひと)ではなく、誰(だれ)とでも気楽に(きらくに)接する(せっする)人だったようです。

魯齋の学識や気さくさが買われた(かわれた)のでしょうか。
明治22年に新しい西里村が誕生(たんじょう)した時、初代村長(しょだいそんちょう)に選ばれ(えらばれ)ますが、魯齋は村長の就任(しゅにん)を固く断った(かたくことわった)そうです。

魯齋の塾は現在(げんざい)、もとJA西里支所(じぇいえいにしざとししょ)の近くに、西里学校は白山堂公民館(はくさんどうこうみんかん)のところにありました。
もとJA西里支所の近くには、平成(へいせい)7年に西里小学校創立(そうりつ)120週年(しゅうねん)を記念(きねん)して、
「西里学校発祥の地(にしざとがっこうはっしょうのち)」
と刻まれた石碑が建立(こんりゅう)されました。

西里学校発祥の地
西里学校発祥の地

「西里学校発祥の地」の字(じ)は魯齋と縁(えん)のある故・逸見義一氏(こ・へんみぎいちし)のものです。

なお、魯齋を偲ぶ(しのぶ)記念碑は白山堂の白山神社の境内(けいだい)に、明治32年、魯齋に学んだ120名の寄付(きふ)により建立(こんりゅう)されました。