逸見惣吉

逸見翁之墓(報徳碑) 下槙 逸見構墓地


逸見翁之墓(報徳碑)
逸見翁之墓(報徳碑)

逸見惣吉氏(へんみ そうきち し)は1805年(文化・ぶんか2年)8月28日に下槙逸見家(しもまきへんみけ)の総本家(そうほんけ)に生まれ(うまれ)ました。

逸見惣吉氏は、幼い頃(おさないころ)から勉強(べんきょう)に熱心(ねっしん)で、中国(ちゅうごく)の古代(こだい)の聖人(せいじん)や賢人(けんじん)の教え(おしえ)や、歴史(れきし)にたいへんくわしかったそうです。
また、逸見惣吉氏が持って(もって)いた本(ほん)は数千巻(すうせんかん)にもおよんだそうです。

逸見惣吉氏は自宅(じたく)で寺子屋(てらこや)を開き(ひらき)、逸見惣吉氏の指導(しどう)をうけた人(ひと)の数(かず)は数百人(すうひゃくにん)にも及ぶ(およぶ)そうです。
逸見惣吉氏の授業(じゅぎょう)はうける人を飽き(あき)させなかったともいわれています。

逸見惣吉氏は1885年(明治・めいじ18年)8月6日にこの世(よ)をさりました。
西里小学校の元(もと)になった学校(がっこう)を開いた(ひらいた)逸見魯齋(へんみ ろさい)氏よりも一世代前(いっせだいまえ)の人といえます。

逸見翁之墓・へんみおうのはか(報徳碑・ほうとくひ)は逸見惣吉氏の教えを受けた(うけた)人たちが逸見惣吉氏の恩(おん)に報いる(むくいる)ため、建立(こんりゅう)しました。
下槙地区内のT字路(てぃーじろ)を簡易郵便局(かんいゆうびんきょく)の方(ほう)にしばらく進んだ(すすんだ)ところの左手(ひだりて)、民家(みんか)の奥(おく)に逸見家の方々(かたがた)のお墓(おはか)があり、その一隅(ひとすみ)に逸見翁之墓があります。

民有地内(みにゅうちない)にある墓地(ぼち)ですので、まわりの家々(いえいえ)の迷惑(めいわく)にならないように参拝(さんぱい)してください。